オリラジ中田の「いい夫やめる」の落とし穴

オリエンタルラジオのあっちゃんが「いい夫やめる」と宣言して、それに対して妻の福田萌さんがツイッターで謝罪するという事態が起こっています。

あっちゃんは、妻の要望に何でも応えて自信満々だったのに、妻のストレスも自分のストレスも最大化してしまったとし、その理由として「人間はNOと言わない相手に対してどんどん要求をあげていくもの」、つまり自分が妻のいうことをききすぎてきたために、妻のわがままがエスカレートしてしまったと主張しているんですね。

これはある意味、的を射ています。過保護な親が子どものわがままを助長することはよくある話で、あっちゃんの言う福田さんの態度も、どことなく親に対する反抗期の子どもを彷彿とさせるものがあります。

しかし、あっちゃんは大事なことに気がついていません。それは、相手のストレスの原因が自分自身にあったのかも知れないという反省です。

私が思うにあっちゃんは「いいひと」でありたい人なんだと思います。きっと誰にでも優しくて、包容力もあって、愛想もよくて、頭もよくて、空気も読める。そういう人でありたいと思っていて、実際そういう立ち回りをしているのではないでしょうか。

「いいひと」であり続けて、人から「いいひと」だと評価されることは、想像以上に快感です。

でもひとたび「いいひと」の快楽を知ってしまった人は、なかなか「いいひと」をやめてくれず、たとえ自分の都合が悪くなっても「いいひと」であり続けようとします。

たとえば3つのおまんじゅうを二人で分けるとき「いいひと」はほとんど無意識に「自分は一つでいいから、二つお食べなさい」と言います。

「あら、ありがとう」と言って二つ食べた方は、大げさに言うと結果的に「悪い人」の役回りを演じたことになります。

二人の関係性の中でどちらかが「いいひと」の役を先取りしてしまうと、もう片方は「悪い人」の役を引き受けなければならなくなり、「一つしか食べられない人がいたのに、自分は二つ食べてしまった」という手のひらサイズの十字架を背負わされるのです。(自らいつも二つのおまんじゅうに手を伸ばす人は「わがまま」と呼ばれます。)

ここで、重要なことは「いいひと」は、いつもいつもおまんじゅうを二つ食べさせられる人のストレスのことなんか一切考えないということです。

このおまんじゅうは、時として「わかった、俺が悪かったよ」という一言であったり、「俺のことはいいから君が好きに決めて」という一言であったりします。

もしこんな具合に相手が「いいひと」であり続けようとすると、自分には損な役しか回ってこないことになります。

損な役とは「わがままを言って相手に甘えている」役です。

関係性の中ではいろいろな役回りを担当しなければならないものですが、いつもいつもこんな役ばかりさせられていたら、そのストレスは計り知れないものになります。

手のひらサイズの十字架だって100個も200個も手渡されたら抱えきれないほど重いものだからです。これがまさに福田さんが抱えていたストレスだと私は思います。

一番問題なのは、「いいひと」本人にその自覚がないことでしょう。

「いいひと」は自分がいつもおまんじゅう一個でいることが、自分のためにも相手のためにも「いいこと」だと信じて疑わず、ただひたすら自分が「いいひと」であり続けようとするのです。これはある種の病で、症状が進行すると「偽善者」という末期症状になります。

この手の「いいひと」は深く付き合わない友達でいる分には問題ありません。「あなた、いいひとねぇ」と呟きながら手のひらサイズの十字架を受け取っておけば本人も満足です。

でも「いいひと」を無自覚にパートナーにするとそういったストレスを抱える危険性があるので注意が必要です。なぜなら「いいひと」は自分が「いいひと」であり続けるためには、時として相手の心など簡単に無視するからです。

といっても昔から人はそういうタイプの人を本能的に察知し、パートナーとしては回避してきたようです。

それは「いいひとなんだけど、付き合えない」という言葉が証明しています。

あっちゃんは典型的な「いいひとなんだけど、付き合えない」と言われるタイプの人なのではないかと私は思います。

 

 

レターポットの成長のためには

 

 

1.日本の経済成長とはモノが売れること
 日本の成長戦略というものは「モノが売れる」という状態を是として成り立っています。国民がモノを買うと、モノを作っている会社が「我が社の製品は売れているから、ひとつ新しい工場でも建ててみるか」という気分になり、そうすると建設業界の仕事が増えるし、新しく工場で人も雇います。そうすると人手不足になりますから、いい人材をゲットするために給料が上がって行きます。給料が上がった労働者は「よし、給料も上がったことだしひとつ奥さんにバッグでも買ってやるか」と、またモノが売れるわけです。こうして景気が良くなっていきます。
したがって経済成長という観点からみると「モノが売れない」という状態は「悪」とされます。

2.広告代理店がトレンドを作る
 成長するためにはどんどんモノを作って、それを売り続けなければならない。モノを売るためには宣伝が必要です。広告代理店は、ありとあらゆる方法を使ってモノを売るお手伝いをしています。それが、日本最大手の広告代理店ともなれば、モノを売るために、流行やトレンドをゼロから作りだすほどの力を持ちます。

   日本には最大手の広告代理店が二社ありまして、仮にDとHとしておきましょう。

   一部の人にしか認知されていなかった秋葉原の地下アイドルを、一躍日本一のアーティストグループに仕立て上げたのはDです。熊本県の要請に対し、新しくゆるキャラを作って国民的キャラクターにしたり、震災後、東北地方でジャニーズグループを使って「食べて応援」というトレンドを作り出したのはHです。

   何がダサくて何がクールなのか、決めるのは世間ではなく広告代理店なのです。

  ちなみにDとHが両方協力して宣伝しているアニメ制作会社があります。スタジオジブリといいます。

 

3.「もったいない」より「断捨離」が流行る
 わかりやすい例を出します。ケニアワンガリ・マータイさんという女性が「もったいない運動」というのを提唱したことを覚えている人は少なくないでしょう。彼女は環境問題のために「もったいない」という概念を世界共通の言葉として広めようと活動しました。一時期大きな話題になりましたが、すぐに下火になり、今ではほとんど口にする人もいません。
 反対に日本では「断捨離」が大流行しています。もともとは仏教用語ですが、「もったいない運動」と同じ時期に提唱されはじめ、2010年に流行語に選ばれ、今ではほとんど普通名詞のように一般化しました。
 「断捨離」は勝手に流行ったのではありません。トレンドを作りだしたのは紛れもなく、最大手の広告代理店です。
 では「もったいない」と「断捨離」の違いはなんだったのでしょうか。もうおわかりですね。みんなが「もったいない」とモノを大事にしたら、新しいモノが売れないのです。「断捨離」は自分に取って不要なモノを捨て去る行為ですが、モノを捨てさせれば、また新しいモノを欲しがらせて売りつけることができるというわけです。

4.そして誰も結婚しなくなった
 もっと大きな話をしますが、日本の生涯未婚率(50歳までに一度も結婚していない人の数)は男性23パーセント、女性14%です。つまり現代社会では男性の5人に1人以上は結婚しません。結婚するかしないかは個人の自由なので、善悪では測れませんが、数字だけ見れば異常な高割合と言えるでしょう。
 これにも最大手広告代理店は絡んでいます。陰謀論のようですが事実です。
まず大前提として「結婚することを望まない人」にはしばしば個人的な理由があり(なにしろ日本は異性しか婚姻を認めてないような国ですから)、他人には全く関係がないし、口出しもできません。私はいかなる場合でも結婚しないという選択をした人を批判することはありません。「人様のことなんてほっておけ」が生きやすさの秘訣です。
しかし、ネットなどに散見される、「結婚しない方が得」とか「独身の方が気楽」という理由から非婚を選択する意見は、個人的というよりは社会的な判断と言えます。そして社会的な判断こそ、大手広告代理店が私たちの社会に植えつけ、蔓延させたある種の「洗脳」の効果なのです。
現代社会においては、お互いに干渉せず、保護や扶養の責任も求められない、自立した「大人」同士が「クールな親密さ」のうちで暮らす方が、生きる上では面倒が少ない(ので、結婚しない)と考える人は多いです。
扶養介護する義務を負い、その意向をつねに配慮しなければならない家族を持っている人は、そうでない人よりも行動の自由が制約されてしまうことは客観的な事実です。
また「面倒だから独身を選ぶ」という人の中には「こだわりの生き方」を持った人も多いです。好みのインテリアで部屋を飾り、好きな音楽をかけ、好きなものを食べ、好きなときに、好きな場所(国)に遊びに行く。そういう生き方を「譲れない」という人たちです。そういうブロガーもたくさん見てきました。
ただ、これらの「自分らしく生きる」こだわりは、すべて「消費行動」を通じて果たされるものです。消費行動を単独で行いたい、ようするに「自分で稼いだ金は自分で好きな事に使いたい」と言っているだけなのです。
消費単位が家族であると消費は自由には行われません。つねに「家族内合意」というものが必要になるからです。「モノが売れない」最大の原因はこの合意形成にあります。
高度経済成長期は、みんな戦争で焼かれてモノを持っていなかったので、何を作っても売れた時代でした。ところが、テレビも洗濯機もマイカーも一通り各家族にいきわたったら、当然ですが売れ行きに陰りが見え始めます。特に昔の日本製のモノはそう簡単には壊れませんから。
消費単位が家族であるとモノが売れない。では、どうすれば消費行動は活性化するだろうか。「そうだ!家族を解体しよう!」冗談みたいな話ですが、こう考えたわけですね。
家族全員がそれぞれの「好み」に応じて買い物をすれば、モノは格段に売れるようになります。簡単な話、独身貴族ばっかり増えたら、車や家電はもっと売れるということです。

5.経済成長が最優先される社会
これは別に、私の妄想というわけではなく、内田樹先生も以下のように指摘しておられます。
「消費単位を家族から個人にシフトすることによってもたらされる「マーケットのビッグバン」こそは1980年代以降、政府から百貨店まで、フェミニストから電通まで、官民挙げての大キャンペーンで推し進めた国策的課題でした。日本国民はこの中曽根首相からの大号令に粛々と従って、「家族解体」と「こだわりの消費生活」に邁進しました。」
具体的に言うと私たちの目の前に現れるありとあらゆる広告、テレビドラマ、映画、音楽、本、雑誌、マンガ、新聞、ラジオなどのメディアが総動員して「結婚したら自由がなくなる」とか「結婚よりも自分探し」とか「愛する人と結ばれないなら死んだ方がまし」とか「結婚にしばられない恋愛」とかの価値観を植え付けたわけです。
他者と共生して生活財を分かちあって暮らす術も、貧しさと折り合う知恵も、消費活動における合意形成も、どれも「経済成長」にとっては百害あって一理なしだからです。
モノを売るためには家族を形成してはならない。これは国家的レベルでの要請で、最大手広告代理店が(彼らもまたモノが売れなければ滅びるわけですから)本気を出しました。まさしく非婚化は80年代以降の国策の劇的成功の結果なのです。
古い価値観を否定し、愛と自由を謳歌していたはずが、実は、消費拡大のための国策という、お釈迦様の手のひらの上で、「自分探し音頭」を踊らされていただけ、ということです。
 その結果、当然のように少子化になって今度は買う人がいなくなってしまった。自業自得です。そしてあわてて「婚活」とか「負け組」などという言葉をでっち上げて流行らせて、今度は「結婚はいいもんだ」ムーブメントを起こそうと頑張っているようですが、依然として非婚化・少子化に歯止めはかかりません。価値観というのは一度ぶっ壊したら最後、二度ともとには戻らないものだからです。でも経済成長のためには働き手も買い手ももっとたくさん必要なので当然「移民政策」という選択肢が浮上します。
 この通り、「経済成長」が全てに優先する社会では、私たちの価値観は破壊され、覆されていきます。しかもやり方が巧妙で、私たちは洗脳されたと気が付かず、あたかも「普遍の真理」であるかのように、あるいは「自分で辿り着いた価値観」のように思い込んでしまうのです。でも気を付けなければなりません。「経済成長」が何よりも優先される社会では戦争も消極的に支持されるようになるからです。何しろ戦争ほど短期間に何かを「消費」する行為を、人類は未だ手にしていないわけですから。

6.レターポットの首を絞めるトレンド
話が信じられないくらい脱線してしまったんですけど、実はレターポットの話がしたかったのです(笑)
レターポットには現在「レターがなくなったとつぶやけば買わなくても誰かが送ってくれる」という風習があります。一種のトレンドといえます。これは一見優しくてすばらしい文化のように思えますが、「レターポット経済圏全体の成長」という観点からみると、確実に自分で自分の首を絞める悪手です。なぜなら「レターポットって、レター買わなくてもいいんだ」と思う人が増えるからです。
レターポットユーザーは現在5万人弱いるので、全員が一度にアクションを起こせば、切手代として一回で125万円分のレターが市場から消滅して運営の利益に回る計算です。なので、「レターを循環させればさせるほど運営が儲かる」みたいなイメージが湧きますが、これは違います。最初に誰かが運営から購入した金額が運営の売上げ全てです。その中から切手代として回収する分を利益として計上するだけであって、アクションによって運営の売上が増えるわけではありません。当たり前ですけど。
運営のお金は増えないわ、レターは市場から目減りするわで、マクロでみたらレターポット全体がやせ細っていくだけなのです。
運営の台所事情が芳しくないとどうなるかというと、「運営への意見はレターで」とか「支援ついでに社員旅行します」みたいな「ちょっとそれどうなん?」という政策に如実に表れてしまいます。ようするに思ったよりレターを買ってくれる人が少なくて焦っているのです。しかし「資本主義から贈与社会に」とか「恩送り」という壮大な概念をコンセプトとして標榜している以上、直接的に「経営危ないからレター買ってよ」と言うと角が立ってしまいます。これは困った。
そこにきて「買わなくても誰かが恵んでくれる」というトレンドが流行っているのです。これはミクロな文化としては楽しいですが、マクロな経済(運営やレターポット経済圏全体)からすれば百害あって一利なしと言えるでしょう。「もったいない運動」に近いものがあります。広告代理店なら決して流行らせないトレンドです。
また、「自分からくれくれと言うのは抵抗がある」という人は少なくありません。レターポットユーザーにはそういう慎ましい性格の人がたくさんいるからです。そういう人が「くれくれ君」がレターをたくさんもらっているのを見て内心モヤモヤしてしまう可能性も十分あります。
代わりに違うトレンドが流行ってくれた方がレターポット的経済成長のためにはいいと思います。「恩送りとは、自分からほしがるではなく、まず与えること。レターを買って誰かに贈ってみましょう」とか。もっと強烈なのがよければ「みっともないぞ、レター乞食」とか「自分から与えてないのに、人からもらおうとするのっておかしくない?」みたいな空気を作るとか。ちょっとギスギスして楽しくなさそうですね(笑)
せめて「返信不要」「既読スルーOK」みたいなマナーの並びで「自分からやたらに欲しがる行為は控えよう」みたいにするとかね。

 

 

さて、今回もまたレターポットについて語ってしまいました。ユーザーでもないのに、すっかりレターポット評論家みたいになってしまっています(笑)でもユーザーじゃないからこそ見える視点もあるかも知れないので、許して下さい。お付き合いいただきありがとうございました。

西野さんの台湾支援について思うこと

 

1.レターを回収して台湾旅行??
台湾の地震を受け、西野さんはさっそく支援することを表明しました。「リベンジ成人式」の時といい、相変わらず素晴らしい決断力とリーダーシップです。
 西野さんは言います。

「今回の地震を受けて、過剰な報道や応援がもたらす風評被害を防ぐために、被害の大きかった花蓮に足を運び、花蓮のものを食べ、花蓮にお金を落とし、花蓮の現状と、そして花蓮の変わらない魅力を日本の皆さんに伝えることが、私達ができる観光地「花蓮」への支援だと考えました。現地の方々の心情を最優先にして、余震の様子を見つつ、頃合いを見計らって、我々のスタッフを「観光客」として現地に向かわせようと思います」

私もその考えには大賛成です。「不謹慎だ」という善意の言葉が、被災地の人達にとってどれほど無益であり、また苦しめるのか、東日本大震災の時に多くの人が気付いたのではないでしょうか。実際「不謹慎だ」などという言葉は、被災者や当事者ではなく、全く無関係な人間から発せられるケースがほとんどだと私は思います。
だから私は、西野さんが観光客として現地に行って遊ぶことをとてもいいことだと心から思いました。しかし、問題はそのお金の出所です。西野さんは続けます。

「今回もレターポットの利益から支援させていただこうと思います」

レターポットの利益は会社のお金なので、どんな使い方をしようが問題ないですが、道義的な問題として、今回は「台湾を支援」という名目を掲げているわけですから、公開ポット内で回収されたレターは、いわばユーザーからの募金です。「え?つまり募金を使って『社員旅行』をするってこと?」多分、多くの人がそう感じたと思います。
 さらに西野さんは続けます。

「ボランティア(善意)におんぶに抱っこではなく、支援される側と支援させていただく側…双方にとってメリットがあるように設計しておかないと、ゆくゆくは支援活動に金銭面での体力的限界がきてしまって、支援活動を打ち切ることになってしまうので、このような形をとらせていただく。」

 言っていることは間違っていないです。しかし、これは論点のすり替えです。だって今回の場合、「支援」すなわち実質的な費用負担をしているのはレターポットユーザーであるわけですが、社員旅行がユーザーにとって一体どんなメリットがあるというのでしょうか。ボランティア(善意)におんぶに抱っこではダメだと言いながら、自分自身はユーザーのボランティア(善意)によってタダで海外旅行というメリットを享受するのは誰が見ても筋が通らない。
 「いやいや、観光客として行くなら身銭切れよ」と感じるのがごく普通の感覚です。

2.西野さんの戦略
 しかし、これは一種の炎上商法であって、西野さんはそのような反応がくることを百も承知でわざとやっていると私は思います。だからそんなモヤモヤを感じずに素直に「西野さんは相変わらずすばらしい」と思う人は、言い方は悪いですが、ちょっと西野信者のケがあるかも。だって、よほど西野さんに心酔している人でなければ「ちょっと違和感があるな」と感じるのが当たり前のことを、わざとやっているのですから。
 では西野さんは何を考えているのでしょうか。その鍵は、「カメラマンとライターの同行」にあります。つまり西野さんは今回の台湾旅行を、一つの「エンタメ」にしようとしているのだと私は思います。そしてその「コンテンツ」を観光PRにして被災地の観光客を増やすことが目的なのではないでしょうか。
 つまり、あえて「遊びに行くなら身銭切れよ!!」と多くの人に散々批判をさせておいて、結局「俺たちは遊びに行ったんじゃない、ほら、この通り、エンタメを作るという『仕事』をしに行ったんだよ、勘違いすんなブス、これからの被災地支援はこれまでみたいにただお金を渡すだけじゃなくて支援する側も支援される側も楽しくならないと続かない、そのためにはエンタメでんでん…」と見事に切り返してみせる計算があるのではないかというのが私の推測です。
 そうすると、「やっぱり西野は天才だった」という感想を持つ人がたくさん現れます。だってそのために一度わざと評価を落としていたのですから。そして違和感を覚えていた支援者も納得し、西野さんの宣伝にもなって三方よしで大団円となるのが筋書でしょう。

3.観光は純粋な支援ではない
 それでも、やはり私は西野さんのロジックには多少の無理があると思っています。それは「支援」という言葉の使い方に表れています。
 人はどんな時にお金を払うでしょうか。普通、人は自分の「できないこと」「利便性を高めること」「自分にとって愉快なこと」のためにお金を支払います。
 つまり、「自分が裁縫する代わりに洋服を作ってくれる」、「新幹線で自力で歩くよりも速く運んでくれる」、「音楽や演劇で楽しい気持ちにさせてくれる」ということに対して対価としてお金を払うのです。
 と、同時に人は、自分以外の人の「快」のためにお金を払うことを嫌がります。理由なく他人にご褒美はあげられないのです。通常だと「人がおいしいものを食べるため」、「人がディズニーランドで楽しむため」にお金を払う人はいません。なぜなら、そんなことをしても、当の自分自身はちっとも愉快にならないし、お腹も膨れないし、まして「自分ができないことをしてくれている」わけでもないからです。
 それらは「対価」ではなく「贈与」、つまりはプレゼントです。プレゼントとは自分が喜ばせたい人(もしくは何か見返りを求めている時)に、「自分の意志」で贈呈するものです。親が子どもにおもちゃを買ってあげる、おっさんがキャバ嬢にヴィトンのバッグを買ってあげる、今回のように被災者に対してお金を寄付をする、これらはすべて「プレゼント」です。
 旅行というのはレジャーであり、言わば自分へのご褒美なので、本来なら自分でお金を出すべき行為なのです。しかし今回、レターポットユーザーは結果として西野さんに「台湾旅行」というプレゼントをした形になりました。
 しかもプレゼントの本質である「自分の意志」もないがしろにされてしまいました。だって、レターポットユーザーが「プレゼント」として無償で「快」を与えたかったのはあくまで台湾の被災者の人だったのに、そのお金を回収した西野さんが、間に自分の「快」を挟んでしまったのですから。
「観光客が増えたら観光地も助かる」というのは間違いないですが、観光地は労働や物販の「対価」としてお金を受け取るのであって、それではユーザーからの「無償のプレゼント=支援」とはなりません。これは被災地に対して「金が欲しいなら俺たち観光客を饗応せんかい、タダではやらんぞ」と言っているのと同じです。レターポットユーザーは「タダで」お金をプレゼントしかったのに。
私は西野さんのフットワークの軽さ、アイディアの奇抜さ、PRの巧みさに感心すると同時に、支援者や被災者に対する独善的な在り方に違和感を覚えることがしばしばあるのです。
かと言って自分は何もしないで批判ばかりしていては、「やらないボクの唄」みたいになっちゃってそれは嫌なので、私も今自分に何ができるか考え直してみたいと思います。

レターポットの直面した壁

1.もともとのコンセプト
レターポットは元々、被災地などに千羽鶴を贈ると、気持ちはこもってるけど被災地は困る。贈る人も受け取る人も誰も悪くないのに誰も幸せになれない。かと言ってお金をそのままあげると、そこにかけられた時間が可視化されないので寂しい感じがする。その代わりにお金に「手紙」という付加価値を乗せられたらいいのではないかというコンセプトから始まりました。

2.レターポットが直面した2つの壁
しかしレターポットは実現に向けて動き出す中で大きな壁に直面しました。まずは法律的な問題です。もしレターポットに公式に換金機能を実装するとなると、レターは仮想通貨になってしまい、日本の法律的に実現がとても難しいのです。おそらく西野さん的にはレターポットを新しい映画のプロモーションのために使うつもりなので、いち早くローンチしてレターを流通させる必要があったと私は思います。
 もう一つの問題は、通貨発行では「全く利益が見込めない」ということです。「通貨」というのは、本来コミュニティ内の利便性を高めるために存在します。つまり公共のものです。通貨を発行することで、その発行元にたとえ1円でも益することがあれば、それはもはや公共のものとは言えません。例えば日本銀行券は「国立印刷局」という独立行政法人が印刷しているのですが、ここに一切の通貨発行益は存在しません。「職員の給料を払ったり、印刷機を買い足すために一万円札を余計に刷る」なんてことは絶対にできないわけです。そのような予算は財務省から出ます。お金を印刷することで利益は出ないので、儲かるか儲からないかの観点から言うとただのお荷物です。だからちょっとでも利益を得ようと国立印刷局は病院を経営したり(今はもうやってませんが昔やってました)、官報などお金以外のものを印刷したりします。日本円は、国民が面倒な物々交換をしなくて済むように(または税金を米俵で納めてもらったら邪魔なので)ようするにただひたすら国民の公共性のために存在するのです。

   ちなみにこれはビットコインも同じです。ビットコインには発行元の企業や団体は存在しません。したがってビットコインが流通すれば特定の個人や団体が利益を得るということはありません。というかそもそもそうできないシステムで設計されていて、そのコンセプトゆえに多くの人が賛同し、世界中の人の公的通貨になりえたのです。
 もし、西野さんがレターポットに換金機能を実装したとして、レターが流通すればするほど西野さんが儲かる仕組みで、発行量も換金レートも西野さんの胸八分、ということになれば、それは公的通貨ではなく、いわば西野共和国の私的通貨なので絶対に誰も信用しません。これは西野さん個人が信用できない、という小さな話ではなく、一個人が「通貨を発行する国家」と同じレベルの信用を獲得することなど不可能だからです。独裁者でさえ無理です。
 つまるところ、「通貨」の発行益を特定の誰かが享受できる状況にある場合、それは「通貨」としての役割は果たせません。逆を言うと「通貨」の発行をしても、誰一人としてお金儲けができないのです。結論として、一個人や一企業が公的通貨を発行することは事実上無理ということです。

3.「レター」は「通貨」ではなく「商品」
 というわけで西野さんは「通貨」の発行をあきらめざるをえませんでした。そこで西野さんは「レター」を「通貨」として流通させる代わりに無料のWEBプラットフォームを作って、「商品」として流通させることにしたのです。かくして結局圧倒的大多数の反対意見を内包しながら、換金機能を実装せずにレターポットはスタートしました。
 そのせいで、レターポットを知らない外部の人からは「千羽鶴と変わらないじゃないか」「運営だけが儲かる仕組み」「宗教みたい」という旨の揶揄にさらされることになってしまいました。そしてリベンジ成人式などでレターポットの認知度が高くなった今、批判の声も比例して大きくなっています。
 でもよくよく考えればそれは仕方のないことです。だってもともとはお金に「言葉という手間」を乗せて付加価値化するはずだったのが、その根本の部分をなくしてしまったからです。代わりに「みんなが<価値がある>と信じさえすればお金と同じ働きをする」というロジックが謳われるようになったのですが、それは「世界中の人が同時にジャンプしたら地球が割れる」という類のいわば統計のファンタジーなので、普通の感覚からすれば「まあ、そりゃ、理論上はそうなんでしょうけど、実体経済における価値はゼロだよね」となるのが当たり前です。

4.レターポットは宗教なのか
 「レターポット=宗教」というキーワードもネット上で散見される意見の一つです。まず大前提として、誰がどんな宗教を信仰したとしてもそれは憲法で保障された自由なので、たとえレターポットが宗教だとしても何の問題もありません。(宗教法人化していないなら税金は納めてもらわないと困りますが(笑))そしてその宗教によって救われる人がいるならば、それは非常に尊いことです。
 もちろん自分の信じる宗教への入信を人に勧めることも自由です。ただし、これは宗教に限らずですが、人に何かを勧める時には多少リスクもあります。

   人に何かを勧める時のコミュニケーション手段は、勧める人のオファーの強さによって「提案」「弱いお願い」「指示」「強いお願い」「強制」などという段階に分かれます。
本来なら何事も自分の意志で決めたらいいのですが、人は「自分の判断が間違っていた」という事実と直面するのがとても苦手なので、無意識のうちに「自分の意志ではなく、人の意向でやった」と思いたい時もあります。
特に新しいことやモノには、これまでの自分の価値観では測りきれない複雑な要素がたくさんあります。「難しいけど、やってみないとわからない」という決断をする時に、誰か他の人が背中を押したり、時には手を引いてあげることで本人の悩むストレスを軽減させてあげることができます。
 しかし、そのようなオファーは、勧める人と勧められる人の人間関係、および信頼関係が前提として存在するものです。「あなたがそこまで言うなら」というやつです。しかし、かかる人間関係によっては、勧める人にとって「提案」のつもりでも、受け取る側が「お前は俺を洗脳しようとしている」と感じて、信用を失ってしまうリスクが出てきてしまうのです。
 私事で恐縮ですが、大学生の時、幼稚園の時からの親友にある宗教団体への入信を勧められたことがあります。私はその宗教の集会に行き、とっても優しそうな大人5人に囲まれて約3時間「○○君が君を誘ったっていうのは、君のためを思う、ものすごい友情だと思うよ。だから入信しようよ。」と言われました。結局私は断りましたが、私に入信を勧めた彼とは今でも親友のままです。それは、私が本当に彼の友情を信じられたからであって、もし、そのような信頼関係がない間柄で同じようなオファーがあれば、きっと疎遠になったと思います。
「興味なかったら断ればいいじゃん」というのは、オファーをする側の理論であって、勧められる側からすると、かなりのストレスとなることもあるのです。
 「人に対して優しくなれる」「くよくよ悩まなくなった」「人生や真理について深く考えるようになった」など、人が宗教を信じることで得られる個人的な体験というものは人それぞれだと思います。しかし宗教というのは信仰して初めて効能を発揮するものです。逆に言えば、宗教とは、信仰していない人(効能を得ていない人)からすれば、合理的に良さを理解することが出来ないものです。それどころか「教祖様にお布施を巻き上げられて可哀そうだわね」という感想を持たれることもザラです。普通の人に「この水には1万円の価値があってね」と言っても「だってその値段つけたのはあなたの教祖様でしょ。私には価値はないわ」と言われるのが関の山です。
レターポットに実体経済上の価値がゼロである以上、宗教と同じような感想を持たれることはある程度仕方のないことと思わなければなりません。

5.民間の換金所の可能性
 では宗教のように「信仰する集団内だけで流通」するのではなく、広く一般にレターポットを普及させるためにはどうすればいいのでしょうか。答えは簡単です。すでに信認されている一般の価値との互換性を持たせてやればいい。つまりは換金です。しかし、上で述べたように、運営が換金を行うことは不可能です。
そこで普及を助けるのはやはり民間の換金所の存在でしょう。運営がやりたくても実現できなかったのであれば、民間でそれをやればいいのです。民間の換金所がレターを日本円に交換すれば、「信じる者だけに価値がある」流の霊感商法的な印象を与えていたレターが、名実ともに「誰もが認める価値」を持つことができるのです。
 これでレターポットは、当初の構想通り、誰かに対して、お金と一緒に応援の言葉、お悔やみの言葉、お祝いの言葉などを贈ることができるようになるのです。
 例えば「就職おめでとう!これからも頑張ってね。ちなみにこの手紙は誰かに回すこともできるし、換金することもできます。もし何か必要なものがあったら換金して使って下さい。もし今は必要が満たされているなら、他の人に送ってあげて下さい。」という言葉を5500円で贈ることができるようになります。これはすばらしいアイディアだと思います。だからこそ多くの人が共感し、クラウドファンディングでも大きな支援を得られたのだと思います。
 そして換金できる場所があるということは、誰が疑ったとしても、その換金所がレターの価値を担保するということです。これでもう誰も「千羽鶴と同じ」だとか「宗教」だと批判することができなくなります。
 実際に私設で換金所を作る動きもあるようです。ツイートやブログなどを拝見して、ちょっと発言や言動に疑問を抱くことはありますが、言っていることや、実現したいことはとても理解できます。また「換金できたらレターポットの良さがなくなってギスギスしてしまう」という意見に対する「レター払い=換金なのに、なぜ買い取りには目くじらを立てるのか」という主張ももっともだと私は思います。
 「交換」と「恩送り」の矛盾はこれからもレターポットユーザーにつきまとう問題だと思います。その時に、「西野さんはどう考えているんだろう」とか「西野さんがやることなら賛成」という態度ではなく、「自分自身にとってレターとは何なのか」を考えることが重要になってくると私は思います。

もしレターポットが換金できたら

レターポットの換金所ができたらという仮定の話をします。

 

レターポットのレターは現状換金することはできません。

しかし、私設の換金所が出来れば、換金することができます。

つまり、レターを換金所となっているアカウント(非公開)に贈ってお金を手に入れることが可能になります。

そうなると、レターポットをやっていない外部の人に対して「レター贈るね。他の人に回してもいいし、換金することもできるから、よかったらレターポット登録してね」とオススメしやすくなります。今まで「怪しい!宗教みたい!ネズミ講じゃないの!?」と言っていた人も「あ、そうなの?それならやってみるわ」と言うことでしょう。レターポットは爆発的に普及していくと思います。

 

また、レターの換金所ではお金でレターを購入することができます。

運営から買えるのに、なんでわざわざ換金所から買う必要があるんだ。と思う方もいるかも知れません。

メリットはあります。

まずは、VISAのクレジットカードを持っていない人はレターを購入することができないということ。つまり買いたいけど買えないユーザーは、換金所に代わりに買ってもらうことができるということです。

次のメリットとしては、買ったら自分のポットにレターが溜まるという点です。換金所にお金を払うと、換金所となっているアカウント(非公開)からレターが贈られます。つまり「贈られたレター」としてストックされるのです。レターは自分に贈ることはできないシステムなので運営から1千万円分レターを買っても、贈られたレターはゼロのままです。そうなるとただの「たくさんレターを買った人」で、レター持ちとは言えません。もちろん自分の贈ったレターが時間をかけて自分に巡ってくるかも知れませんが、現実では目立つ人、声の大きな人にばかりレターは吸い取られていってなかなか自分のポットには返ってきません。しかし換金所で買えば、同じレター数でも、即、自分のポットにレターが溜まるのです。そしてそれをまた恩送りに使うことができます。換金所アカウントは普通のアカウントと変わりないので、誰からも「あの人、お金でレター買った人だわ」と思われる心配もありません。

 

と、いうことで、いろんな人にメリットがあるのでレターポット換金所が誕生すれば、多分利用する人は多いと思います。

 

で、このような換金所は運営に許されるかどうかという話ですが、それはわかりません。運営の規約の禁止事項に

(1)当社、他の会員、外部SNS事業者その他第三者に損害を生じさせるおそれのある目的または方法で本サービスを利用した場合

(2)手段の如何を問わず、本サービスの運営を妨害した場合

 

とあります。

私設換金所ははたして、この項目に該当するのでしょうか。それは運営の判断になると思います。本来運営からレターを購入する人が、換金所で買ってしまうことで運営に損害があると解釈される可能性もあります。

 

しかし、レターを買い取るという行為は、構造的には換金所に「お金をもらう」という行為のお礼にレターを贈るという行為です。レターは文字を贈り物として定義しているので、行為自体は何らおかしいことではありません。もしこの行為がダメだというのならば、レターでコーヒーを御馳走することも、銭湯のサービスを提供することもロジック的にはダメになってしまいます。

 

そして換金所からレターを買うという行為も、その反対で、「クレジットカードがないけどレターがほしい」という頼みごとを叶えるお礼にお金を提供している。もしくは、換金所にお金をプレゼントするお礼にレターが贈られる、という構造なので、それほどレターポットの目的から逸脱した行為ではないと思います。

 

はい。ここまで書いておいてナンですが、私は別に換金所を作りたいと思っているわけではありません。ちょっとした思考ゲームです。

私は前回のブログでも書いた通り、文字に値札をはっつけるという西野さんの行為は、コンプガチャに付加価値をつける行為にすごく似ている気がして、まだ心にわだかまりがあるのです。「楽しければいいじゃん」という意見もわかるのですが、それを人に勧める行為は「もともと興味なかった人を、自分の影響でコンプガチャ中毒にしてしまう」みたいな感覚があって気が咎めるのです。あくまでも私はですが。

そしていろんなユーザーさんとツイッター上で議論をする中で、レターポットユーザーの方は本当に善い方ばかりとい感じましたので(嫌味ではありません)、換金所を作ったら、その善い人たちを煽って商売することになるので、それもあまり楽しい商売ではなさそうな気がします。

レターポットについて思うこと

 

今話題のレターポットについて思うことを書いてみます。

 

1.レターポットとは

 レターポットとは西野亮廣さんが考案した新サービス。運営から一文字(レターという単位)5円で文字を購入することができ、それを使って他のユーザーにメッセージを送ることができる。メッセージをもらった人はもらった文字数(レター)がどんどん自分のアカウントに加算されていき、それをまた違う人に送ることができる仕組み。信用がある人は比例してレターが溜まると仮定されるので、今の時代の大事な「信用」を可視化することができる。

 

2.疑問その1 「プレゼントの本質は時間とは限らない」

 西野さんは言う。「プレゼントの本質はそこに費やされた時間」だと。「お金を贈られたら便利だが、そこに時間が費やされていないからちょっと寂しい」とも言う。お金や商品券だと情感がなくなるという理屈はたしかにわかる。しかし、「プレゼントの本質がそこに費やされた時間」というのは本当だろうか。インディアンの贈与の風習でポトラッチというものがある。これは、自分の財産を相手の目の前でぶっ壊すことで「こんな犠牲をいとわないほど、あなたのことを思っています」という気持ちを伝える行動原理だ。ポトラッチは慣習なので、その文化圏の中では常識であり、「ああ、いつもありがとね」となるのだろう。しかし、ポトラッチの共通認識を持たない私たちは果たして、目の前で高価な財産をぶっ壊されて心から嬉しく感じられるだろうか。少なくとも私ならドン引きする。「費やされた時間にこそ価値がある」というのは非常にポトラッチ的な考えである。誰かがツイッターで言っていたが「このプレゼントあなたのために大阪から東京まで徒歩で持ってきましたと言われて、嬉しいだろうか」。やはり私ならドン引き。というわけで、まず「かけられた時間こそがプレゼントの本質」という西野さんの考えに対して疑問その1。

 

3.疑問その2「レターの価値は無理やり作られたものである」

 そして西野さんは「送るお金に面倒を足す」ことで費やされた時間を可視化するために、一文字5円〜50円という価値のついたレターを提案する。使い道として「誰かの退社のお祝いとかで文字を贈ってあげる」とか「友達の演劇の感想を”価値のある文字”で、贈ってあげる」としている。ここでいう「価値のある文字」の価値とは何だろうか。いわく「レターポットの1レター(文字)には5円の価値があるということを、みんな知っている」ということらしい。つまり「この文字には5円の値段がついているから価値がある」と、値段をつけた本人が言っているのである。これは「この水は1万円の価値があります。なぜなら、私が1万円で売っているからです」という霊感商法と全く同じ構図である。ようするにこのレターは、もともと価値がある(みんなが欲しがる)から5円の値段がついたのではなく、西野さんが無理やり値札をはっつけることで、さももともと価値があるものかのように錯覚させているものである。

そして「言葉」というものは人類全体の共有財産です。ビルゲイツだろうがホームレスのオッサンだろうが無料で使うことができる。そこに言葉の力があります。それを一個人が通行料のように課金してしまっていいのでしょうか。私には「親孝行」の価値を可視化するために有料にしよう、とか「お母さんの仕事」を数値化するために課金しよう、みたいな乱暴な行為、それこそ非常に資本主義的な行為に見えます。言葉は生き物ですから自由にさせておくのが一番です。一個人が安易に課金などすると、結果としてコミュニティ内の言語文化を痩せ細らせてしまうことになってしまうと思います。ここがかなり大きな疑問2。

 

4.「価値がないならなぜレターをもらったら嬉しく感じるか」

「でも同じお礼でもレターでもらったら本当に嬉しく感じる」という声をたくさん聞いた。それはきっと嘘ではないと思う。

ためしにSNSのイイネ機能が有料になったと考えてみてほしい。ようは運営から1イイネ5円で買うか、誰かからイイネももらうかしなければ他の人にイイネすることができない世界である。その世界では、それまで洪水のように溢れて暴落していたイイネの価値が無理やり吊り上げられている。そうなると人は本当にイイネと思ったものにしかイイネをしないし、もし自分がイイネをもらうと、無料のイイネをもらった時よりも絶対に嬉しいと感じるはずだ。つまり「レターでもらうと、無料の文字でもらうより嬉しい」とはそういう感覚である。

しかし、それは単に「飢餓状態で食べると、普通のパンでも信じられないくらいおいしく感じる」というだけであって、飢餓状態じゃない人からすると「いつもと同じパン」である。それを「このパンはこんなにおいしく感じるんだから(それは嘘ではないです)、普通のパンではなく特別な価値のあるパンです」と言い張って売るのは消費者を欺く行為だ。しかも、パンをおいしく感じさせるために、わざと飢餓状態を作りだしているのは他ならぬパン屋さんなのである。あなたがどんなにそのパン屋さんのファンで応援したいと思っても、そうでない人からすれば「パンはパン」です。これは老婆心ですが「一回食べればわかるから!」と言ってオススメしても怪しまれるだけだと思います。

 

5.「換金機能=コミュニティ外部からの信用」

 レターポットは最初換金機能がつくはずでしたが、直前になって中止されました。最初は内部でも「換金できなければただの有料SNSだ」という批判的な声が上がっていたようですが、最近ではすっかり「むしろ換金できたら意味がない」というのがトレンドのようです。

 その理由として、給料が完全に管理されている人にはレターを送ることができないとされていますが、これは真っ赤な嘘です。副業禁止のことを言っているのでしょうが、レターポットを「ご祝儀」だと考えれば世間相場であれば税制申告の必要はありません。たとえ高額になったとしてもしっかり確定申告すれば大丈夫。

 そしてもう一つ、換金不要の根拠として「レター(文字)には5円の価値があるということを、みんなが知っている経済圏では換金が不要」というロジックが謳われています。それは(戦時中、小学校で配られる肝油が子どもたちの経済圏で通貨の代わりになっていたのと同じようなことで)論理的には間違ってはいないのですが、それではどこまでいってもコミュニティ内でしか信用されません。もしそのモノ自体に利用価値(固くて壊れにくい素材とか、ピカピカ光ってるとか、食べたらおいしいとか)がない場合、コミュニティを一歩出れば一切の価値がなくなります。コミュニティ外部の「価値ある何か」と交換が出来ることが、唯一客観的な価値を担保する方法なのです。それがつまり換金機能です。もしレターが安定したレートで日本円に換金することができれば、その信認は日本全国に及びます。名実ともに「これは1文字5円の価値のある文字だからね」ということになり、便利さからおそらく爆発的に普及するでしょう。しかし換金機能がなければ、コミュニティ外の人に客観的に価値を信用させることは不可能です。だってもともとコミュニティ外の人には価値のないものですから(普通のパンをおいしいと感じるのは飢餓状態の人だけです)。そうなるとレターは家の中でしか使えない「肩たたき券」と同じです。

 

6.疑問その3「なぜ運営は恩送りよりも日本円をほしがるのか」

 レターポットで作りたい世界は「恩送り」だそうです。恩送りとは「お返しとか見返りは求めずに、とにかく人に与えましょう」という考え方らしいです。「交換」を基本とする資本主義の時代から、恩送りの贈与時代にいきましょうよ、と西野さんは提案します。

 すばらしい考え方ですね。しかしここでまた疑問があります。運営は西野さんが提案する「恩送り」の世界を実現するために一生懸命働いています。しかし、その働いた分の見返りとして日本円の受取を決して拒否しません。「いや、もし俺が見返りもらっちゃったらレターポットで作りたい世界と矛盾しちゃうんで!」と言う人は誰もいないようです。西野さんでさえ言いません。つまり運営や西野さんはユーザーに提案する未来をこれっぽっちも信じていないのです。信じているかも知れませんが、少なくとも言動だけ見たら信じていません。「いやいや、だって現実問題サーバーの料金とかもかかるし、ご飯も食べなきゃ生きていけないじゃん」と言われますが、その通りなんです。運営は決して「すみませんけどサーバー無料で貸してくれませんか、お礼はレターで贈りますから」とか「すみませんが、ご飯食べさせてくれませんか。レターでお礼しますから」とは言いません。ようは自分が値札をつけた1文字5円のレターが、現実社会では無価値なことを知っているから言わないのです。そんなことを言ったら信用をなくしますからね(笑)。でもそれを言わないのなら、「見返りは求めるな」とか、「資本主義から贈与時代」とか大風呂敷を広げない方がいい。まして少しでも善いことをしよう、人を喜ばせよう、というユーザーの善意の部分を搾取するような商売は止めた方がいいと私は思います。これが疑問その3です。

 

7.疑問その4「レターの多さは信用を可視化させるのか」

 レターポットは「信用」を集めるのに最適で、そして集めた「信用」を可視化するという社会実験のようです。これは私個人の考えですが、信用というものは1文字5円のレターがたくさん集まったら可視化されるという、そんな即物的なものではないと思います。目に見えない、小さな小さな関係性の積み重ねで、長い年月をかけなければ築けないものです。反対に壊れる時は、たった一度の過ち、たった一言の言葉によって一瞬で壊れてしまうようなとてももろいものです。だからこそかけがえのないものなのです。

 レターポットによってたくさんのレターを得た人が結果としてクラウドファンディングなどで支援を得られるということが起こっています。それ自体はすばらしいことです。しかし、それは信用とは少し違うことだと思います。もしレターポットを贈ってばかりで、あまり自分にはレターが贈られてこないという人がいたとします。その人は人として信用がないのでしょうか。そんなことはないと思います。目立つのが苦手な慎ましい人なのかも知れません。ただ声が小さいだけかも知れません。でも実際にはレターポットが普及すれば一部の影響力を持った人、声が大きくて目立つ人のところにレター(=信用と西野さんが仮定しているもの)が集まり、その人はますますレター持ちになる一方、その他のほとんどの人にはあまりレターが回ってこなくなるでしょう。そして重要なのは、影響力の少ない人が善意で購入したレターを養分にしなければ、影響力のある人にレターが集まらない仕組みだということです。そしてその頂点に君臨するのが西野さんというわけです。レターポットの近未来は信用(と認識されている何か)のネズミ講のような形相を呈してくると私は予想します。だって、レターポットで得た利益で、災害支援などをしたとしても、それで信用を獲得するのは西野さん一人であって、かいがいしくレターを購入した無名の人には決して光が当たることはないからです。これが私の考える「レターポットによって信用が可視化された世界」の行く末です。私にはこのような世界がすばらしいとはどうしても思えません。これが最後の疑問です。

 

8.「レターポットは西野さんを応援するには最適なツール」

 と、ここまでつらつらと批判めいたことを書き綴ってきましたが、私はレターポットがなくなればいいと思っているわけではありません。レターポットは使えば使うほど、西野さんの影響力は大きくなりますし、理論的には西野さんがボロ儲けすることも可能です(儲けたお金で災害支援をしようが風俗に行こうがそれは関係なく)。なので、西野さんという個人の活動に賛同し、金銭的に応援するためにはかなり有益なツールだと思います。それは西野さんファンからすれば喜ばしいことなので、ファンクラブのコミュニケーションツールとしては最強なのではないでしょうか。ただ、これまで述べてきたような理由で、西野さんを応援したいと思っていない人に、客観的にレターポットの価値を理解させることは相当難しいことだと思うので、通貨のように一般に普及する可能性はほぼないと私は思います。