西野さんの台湾支援について思うこと

 

1.レターを回収して台湾旅行??
台湾の地震を受け、西野さんはさっそく支援することを表明しました。「リベンジ成人式」の時といい、相変わらず素晴らしい決断力とリーダーシップです。
 西野さんは言います。

「今回の地震を受けて、過剰な報道や応援がもたらす風評被害を防ぐために、被害の大きかった花蓮に足を運び、花蓮のものを食べ、花蓮にお金を落とし、花蓮の現状と、そして花蓮の変わらない魅力を日本の皆さんに伝えることが、私達ができる観光地「花蓮」への支援だと考えました。現地の方々の心情を最優先にして、余震の様子を見つつ、頃合いを見計らって、我々のスタッフを「観光客」として現地に向かわせようと思います」

私もその考えには大賛成です。「不謹慎だ」という善意の言葉が、被災地の人達にとってどれほど無益であり、また苦しめるのか、東日本大震災の時に多くの人が気付いたのではないでしょうか。実際「不謹慎だ」などという言葉は、被災者や当事者ではなく、全く無関係な人間から発せられるケースがほとんどだと私は思います。
だから私は、西野さんが観光客として現地に行って遊ぶことをとてもいいことだと心から思いました。しかし、問題はそのお金の出所です。西野さんは続けます。

「今回もレターポットの利益から支援させていただこうと思います」

レターポットの利益は会社のお金なので、どんな使い方をしようが問題ないですが、道義的な問題として、今回は「台湾を支援」という名目を掲げているわけですから、公開ポット内で回収されたレターは、いわばユーザーからの募金です。「え?つまり募金を使って『社員旅行』をするってこと?」多分、多くの人がそう感じたと思います。
 さらに西野さんは続けます。

「ボランティア(善意)におんぶに抱っこではなく、支援される側と支援させていただく側…双方にとってメリットがあるように設計しておかないと、ゆくゆくは支援活動に金銭面での体力的限界がきてしまって、支援活動を打ち切ることになってしまうので、このような形をとらせていただく。」

 言っていることは間違っていないです。しかし、これは論点のすり替えです。だって今回の場合、「支援」すなわち実質的な費用負担をしているのはレターポットユーザーであるわけですが、社員旅行がユーザーにとって一体どんなメリットがあるというのでしょうか。ボランティア(善意)におんぶに抱っこではダメだと言いながら、自分自身はユーザーのボランティア(善意)によってタダで海外旅行というメリットを享受するのは誰が見ても筋が通らない。
 「いやいや、観光客として行くなら身銭切れよ」と感じるのがごく普通の感覚です。

2.西野さんの戦略
 しかし、これは一種の炎上商法であって、西野さんはそのような反応がくることを百も承知でわざとやっていると私は思います。だからそんなモヤモヤを感じずに素直に「西野さんは相変わらずすばらしい」と思う人は、言い方は悪いですが、ちょっと西野信者のケがあるかも。だって、よほど西野さんに心酔している人でなければ「ちょっと違和感があるな」と感じるのが当たり前のことを、わざとやっているのですから。
 では西野さんは何を考えているのでしょうか。その鍵は、「カメラマンとライターの同行」にあります。つまり西野さんは今回の台湾旅行を、一つの「エンタメ」にしようとしているのだと私は思います。そしてその「コンテンツ」を観光PRにして被災地の観光客を増やすことが目的なのではないでしょうか。
 つまり、あえて「遊びに行くなら身銭切れよ!!」と多くの人に散々批判をさせておいて、結局「俺たちは遊びに行ったんじゃない、ほら、この通り、エンタメを作るという『仕事』をしに行ったんだよ、勘違いすんなブス、これからの被災地支援はこれまでみたいにただお金を渡すだけじゃなくて支援する側も支援される側も楽しくならないと続かない、そのためにはエンタメでんでん…」と見事に切り返してみせる計算があるのではないかというのが私の推測です。
 そうすると、「やっぱり西野は天才だった」という感想を持つ人がたくさん現れます。だってそのために一度わざと評価を落としていたのですから。そして違和感を覚えていた支援者も納得し、西野さんの宣伝にもなって三方よしで大団円となるのが筋書でしょう。

3.観光は純粋な支援ではない
 それでも、やはり私は西野さんのロジックには多少の無理があると思っています。それは「支援」という言葉の使い方に表れています。
 人はどんな時にお金を払うでしょうか。普通、人は自分の「できないこと」「利便性を高めること」「自分にとって愉快なこと」のためにお金を支払います。
 つまり、「自分が裁縫する代わりに洋服を作ってくれる」、「新幹線で自力で歩くよりも速く運んでくれる」、「音楽や演劇で楽しい気持ちにさせてくれる」ということに対して対価としてお金を払うのです。
 と、同時に人は、自分以外の人の「快」のためにお金を払うことを嫌がります。理由なく他人にご褒美はあげられないのです。通常だと「人がおいしいものを食べるため」、「人がディズニーランドで楽しむため」にお金を払う人はいません。なぜなら、そんなことをしても、当の自分自身はちっとも愉快にならないし、お腹も膨れないし、まして「自分ができないことをしてくれている」わけでもないからです。
 それらは「対価」ではなく「贈与」、つまりはプレゼントです。プレゼントとは自分が喜ばせたい人(もしくは何か見返りを求めている時)に、「自分の意志」で贈呈するものです。親が子どもにおもちゃを買ってあげる、おっさんがキャバ嬢にヴィトンのバッグを買ってあげる、今回のように被災者に対してお金を寄付をする、これらはすべて「プレゼント」です。
 旅行というのはレジャーであり、言わば自分へのご褒美なので、本来なら自分でお金を出すべき行為なのです。しかし今回、レターポットユーザーは結果として西野さんに「台湾旅行」というプレゼントをした形になりました。
 しかもプレゼントの本質である「自分の意志」もないがしろにされてしまいました。だって、レターポットユーザーが「プレゼント」として無償で「快」を与えたかったのはあくまで台湾の被災者の人だったのに、そのお金を回収した西野さんが、間に自分の「快」を挟んでしまったのですから。
「観光客が増えたら観光地も助かる」というのは間違いないですが、観光地は労働や物販の「対価」としてお金を受け取るのであって、それではユーザーからの「無償のプレゼント=支援」とはなりません。これは被災地に対して「金が欲しいなら俺たち観光客を饗応せんかい、タダではやらんぞ」と言っているのと同じです。レターポットユーザーは「タダで」お金をプレゼントしかったのに。
私は西野さんのフットワークの軽さ、アイディアの奇抜さ、PRの巧みさに感心すると同時に、支援者や被災者に対する独善的な在り方に違和感を覚えることがしばしばあるのです。
かと言って自分は何もしないで批判ばかりしていては、「やらないボクの唄」みたいになっちゃってそれは嫌なので、私も今自分に何ができるか考え直してみたいと思います。