レターポットの直面した壁

1.もともとのコンセプト
レターポットは元々、被災地などに千羽鶴を贈ると、気持ちはこもってるけど被災地は困る。贈る人も受け取る人も誰も悪くないのに誰も幸せになれない。かと言ってお金をそのままあげると、そこにかけられた時間が可視化されないので寂しい感じがする。その代わりにお金に「手紙」という付加価値を乗せられたらいいのではないかというコンセプトから始まりました。

2.レターポットが直面した2つの壁
しかしレターポットは実現に向けて動き出す中で大きな壁に直面しました。まずは法律的な問題です。もしレターポットに公式に換金機能を実装するとなると、レターは仮想通貨になってしまい、日本の法律的に実現がとても難しいのです。おそらく西野さん的にはレターポットを新しい映画のプロモーションのために使うつもりなので、いち早くローンチしてレターを流通させる必要があったと私は思います。
 もう一つの問題は、通貨発行では「全く利益が見込めない」ということです。「通貨」というのは、本来コミュニティ内の利便性を高めるために存在します。つまり公共のものです。通貨を発行することで、その発行元にたとえ1円でも益することがあれば、それはもはや公共のものとは言えません。例えば日本銀行券は「国立印刷局」という独立行政法人が印刷しているのですが、ここに一切の通貨発行益は存在しません。「職員の給料を払ったり、印刷機を買い足すために一万円札を余計に刷る」なんてことは絶対にできないわけです。そのような予算は財務省から出ます。お金を印刷することで利益は出ないので、儲かるか儲からないかの観点から言うとただのお荷物です。だからちょっとでも利益を得ようと国立印刷局は病院を経営したり(今はもうやってませんが昔やってました)、官報などお金以外のものを印刷したりします。日本円は、国民が面倒な物々交換をしなくて済むように(または税金を米俵で納めてもらったら邪魔なので)ようするにただひたすら国民の公共性のために存在するのです。

   ちなみにこれはビットコインも同じです。ビットコインには発行元の企業や団体は存在しません。したがってビットコインが流通すれば特定の個人や団体が利益を得るということはありません。というかそもそもそうできないシステムで設計されていて、そのコンセプトゆえに多くの人が賛同し、世界中の人の公的通貨になりえたのです。
 もし、西野さんがレターポットに換金機能を実装したとして、レターが流通すればするほど西野さんが儲かる仕組みで、発行量も換金レートも西野さんの胸八分、ということになれば、それは公的通貨ではなく、いわば西野共和国の私的通貨なので絶対に誰も信用しません。これは西野さん個人が信用できない、という小さな話ではなく、一個人が「通貨を発行する国家」と同じレベルの信用を獲得することなど不可能だからです。独裁者でさえ無理です。
 つまるところ、「通貨」の発行益を特定の誰かが享受できる状況にある場合、それは「通貨」としての役割は果たせません。逆を言うと「通貨」の発行をしても、誰一人としてお金儲けができないのです。結論として、一個人や一企業が公的通貨を発行することは事実上無理ということです。

3.「レター」は「通貨」ではなく「商品」
 というわけで西野さんは「通貨」の発行をあきらめざるをえませんでした。そこで西野さんは「レター」を「通貨」として流通させる代わりに無料のWEBプラットフォームを作って、「商品」として流通させることにしたのです。かくして結局圧倒的大多数の反対意見を内包しながら、換金機能を実装せずにレターポットはスタートしました。
 そのせいで、レターポットを知らない外部の人からは「千羽鶴と変わらないじゃないか」「運営だけが儲かる仕組み」「宗教みたい」という旨の揶揄にさらされることになってしまいました。そしてリベンジ成人式などでレターポットの認知度が高くなった今、批判の声も比例して大きくなっています。
 でもよくよく考えればそれは仕方のないことです。だってもともとはお金に「言葉という手間」を乗せて付加価値化するはずだったのが、その根本の部分をなくしてしまったからです。代わりに「みんなが<価値がある>と信じさえすればお金と同じ働きをする」というロジックが謳われるようになったのですが、それは「世界中の人が同時にジャンプしたら地球が割れる」という類のいわば統計のファンタジーなので、普通の感覚からすれば「まあ、そりゃ、理論上はそうなんでしょうけど、実体経済における価値はゼロだよね」となるのが当たり前です。

4.レターポットは宗教なのか
 「レターポット=宗教」というキーワードもネット上で散見される意見の一つです。まず大前提として、誰がどんな宗教を信仰したとしてもそれは憲法で保障された自由なので、たとえレターポットが宗教だとしても何の問題もありません。(宗教法人化していないなら税金は納めてもらわないと困りますが(笑))そしてその宗教によって救われる人がいるならば、それは非常に尊いことです。
 もちろん自分の信じる宗教への入信を人に勧めることも自由です。ただし、これは宗教に限らずですが、人に何かを勧める時には多少リスクもあります。

   人に何かを勧める時のコミュニケーション手段は、勧める人のオファーの強さによって「提案」「弱いお願い」「指示」「強いお願い」「強制」などという段階に分かれます。
本来なら何事も自分の意志で決めたらいいのですが、人は「自分の判断が間違っていた」という事実と直面するのがとても苦手なので、無意識のうちに「自分の意志ではなく、人の意向でやった」と思いたい時もあります。
特に新しいことやモノには、これまでの自分の価値観では測りきれない複雑な要素がたくさんあります。「難しいけど、やってみないとわからない」という決断をする時に、誰か他の人が背中を押したり、時には手を引いてあげることで本人の悩むストレスを軽減させてあげることができます。
 しかし、そのようなオファーは、勧める人と勧められる人の人間関係、および信頼関係が前提として存在するものです。「あなたがそこまで言うなら」というやつです。しかし、かかる人間関係によっては、勧める人にとって「提案」のつもりでも、受け取る側が「お前は俺を洗脳しようとしている」と感じて、信用を失ってしまうリスクが出てきてしまうのです。
 私事で恐縮ですが、大学生の時、幼稚園の時からの親友にある宗教団体への入信を勧められたことがあります。私はその宗教の集会に行き、とっても優しそうな大人5人に囲まれて約3時間「○○君が君を誘ったっていうのは、君のためを思う、ものすごい友情だと思うよ。だから入信しようよ。」と言われました。結局私は断りましたが、私に入信を勧めた彼とは今でも親友のままです。それは、私が本当に彼の友情を信じられたからであって、もし、そのような信頼関係がない間柄で同じようなオファーがあれば、きっと疎遠になったと思います。
「興味なかったら断ればいいじゃん」というのは、オファーをする側の理論であって、勧められる側からすると、かなりのストレスとなることもあるのです。
 「人に対して優しくなれる」「くよくよ悩まなくなった」「人生や真理について深く考えるようになった」など、人が宗教を信じることで得られる個人的な体験というものは人それぞれだと思います。しかし宗教というのは信仰して初めて効能を発揮するものです。逆に言えば、宗教とは、信仰していない人(効能を得ていない人)からすれば、合理的に良さを理解することが出来ないものです。それどころか「教祖様にお布施を巻き上げられて可哀そうだわね」という感想を持たれることもザラです。普通の人に「この水には1万円の価値があってね」と言っても「だってその値段つけたのはあなたの教祖様でしょ。私には価値はないわ」と言われるのが関の山です。
レターポットに実体経済上の価値がゼロである以上、宗教と同じような感想を持たれることはある程度仕方のないことと思わなければなりません。

5.民間の換金所の可能性
 では宗教のように「信仰する集団内だけで流通」するのではなく、広く一般にレターポットを普及させるためにはどうすればいいのでしょうか。答えは簡単です。すでに信認されている一般の価値との互換性を持たせてやればいい。つまりは換金です。しかし、上で述べたように、運営が換金を行うことは不可能です。
そこで普及を助けるのはやはり民間の換金所の存在でしょう。運営がやりたくても実現できなかったのであれば、民間でそれをやればいいのです。民間の換金所がレターを日本円に交換すれば、「信じる者だけに価値がある」流の霊感商法的な印象を与えていたレターが、名実ともに「誰もが認める価値」を持つことができるのです。
 これでレターポットは、当初の構想通り、誰かに対して、お金と一緒に応援の言葉、お悔やみの言葉、お祝いの言葉などを贈ることができるようになるのです。
 例えば「就職おめでとう!これからも頑張ってね。ちなみにこの手紙は誰かに回すこともできるし、換金することもできます。もし何か必要なものがあったら換金して使って下さい。もし今は必要が満たされているなら、他の人に送ってあげて下さい。」という言葉を5500円で贈ることができるようになります。これはすばらしいアイディアだと思います。だからこそ多くの人が共感し、クラウドファンディングでも大きな支援を得られたのだと思います。
 そして換金できる場所があるということは、誰が疑ったとしても、その換金所がレターの価値を担保するということです。これでもう誰も「千羽鶴と同じ」だとか「宗教」だと批判することができなくなります。
 実際に私設で換金所を作る動きもあるようです。ツイートやブログなどを拝見して、ちょっと発言や言動に疑問を抱くことはありますが、言っていることや、実現したいことはとても理解できます。また「換金できたらレターポットの良さがなくなってギスギスしてしまう」という意見に対する「レター払い=換金なのに、なぜ買い取りには目くじらを立てるのか」という主張ももっともだと私は思います。
 「交換」と「恩送り」の矛盾はこれからもレターポットユーザーにつきまとう問題だと思います。その時に、「西野さんはどう考えているんだろう」とか「西野さんがやることなら賛成」という態度ではなく、「自分自身にとってレターとは何なのか」を考えることが重要になってくると私は思います。