オリラジ中田の「いい夫やめる」の落とし穴

オリエンタルラジオのあっちゃんが「いい夫やめる」と宣言して、それに対して妻の福田萌さんがツイッターで謝罪するという事態が起こっています。

あっちゃんは、妻の要望に何でも応えて自信満々だったのに、妻のストレスも自分のストレスも最大化してしまったとし、その理由として「人間はNOと言わない相手に対してどんどん要求をあげていくもの」、つまり自分が妻のいうことをききすぎてきたために、妻のわがままがエスカレートしてしまったと主張しているんですね。

これはある意味、的を射ています。過保護な親が子どものわがままを助長することはよくある話で、あっちゃんの言う福田さんの態度も、どことなく親に対する反抗期の子どもを彷彿とさせるものがあります。

しかし、あっちゃんは大事なことに気がついていません。それは、相手のストレスの原因が自分自身にあったのかも知れないという反省です。

私が思うにあっちゃんは「いいひと」でありたい人なんだと思います。きっと誰にでも優しくて、包容力もあって、愛想もよくて、頭もよくて、空気も読める。そういう人でありたいと思っていて、実際そういう立ち回りをしているのではないでしょうか。

「いいひと」であり続けて、人から「いいひと」だと評価されることは、想像以上に快感です。

でもひとたび「いいひと」の快楽を知ってしまった人は、なかなか「いいひと」をやめてくれず、たとえ自分の都合が悪くなっても「いいひと」であり続けようとします。

たとえば3つのおまんじゅうを二人で分けるとき「いいひと」はほとんど無意識に「自分は一つでいいから、二つお食べなさい」と言います。

「あら、ありがとう」と言って二つ食べた方は、大げさに言うと結果的に「悪い人」の役回りを演じたことになります。

二人の関係性の中でどちらかが「いいひと」の役を先取りしてしまうと、もう片方は「悪い人」の役を引き受けなければならなくなり、「一つしか食べられない人がいたのに、自分は二つ食べてしまった」という手のひらサイズの十字架を背負わされるのです。(自らいつも二つのおまんじゅうに手を伸ばす人は「わがまま」と呼ばれます。)

ここで、重要なことは「いいひと」は、いつもいつもおまんじゅうを二つ食べさせられる人のストレスのことなんか一切考えないということです。

このおまんじゅうは、時として「わかった、俺が悪かったよ」という一言であったり、「俺のことはいいから君が好きに決めて」という一言であったりします。

もしこんな具合に相手が「いいひと」であり続けようとすると、自分には損な役しか回ってこないことになります。

損な役とは「わがままを言って相手に甘えている」役です。

関係性の中ではいろいろな役回りを担当しなければならないものですが、いつもいつもこんな役ばかりさせられていたら、そのストレスは計り知れないものになります。

手のひらサイズの十字架だって100個も200個も手渡されたら抱えきれないほど重いものだからです。これがまさに福田さんが抱えていたストレスだと私は思います。

一番問題なのは、「いいひと」本人にその自覚がないことでしょう。

「いいひと」は自分がいつもおまんじゅう一個でいることが、自分のためにも相手のためにも「いいこと」だと信じて疑わず、ただひたすら自分が「いいひと」であり続けようとするのです。これはある種の病で、症状が進行すると「偽善者」という末期症状になります。

この手の「いいひと」は深く付き合わない友達でいる分には問題ありません。「あなた、いいひとねぇ」と呟きながら手のひらサイズの十字架を受け取っておけば本人も満足です。

でも「いいひと」を無自覚にパートナーにするとそういったストレスを抱える危険性があるので注意が必要です。なぜなら「いいひと」は自分が「いいひと」であり続けるためには、時として相手の心など簡単に無視するからです。

といっても昔から人はそういうタイプの人を本能的に察知し、パートナーとしては回避してきたようです。

それは「いいひとなんだけど、付き合えない」という言葉が証明しています。

あっちゃんは典型的な「いいひとなんだけど、付き合えない」と言われるタイプの人なのではないかと私は思います。