レターポットについて思うこと

 

今話題のレターポットについて思うことを書いてみます。

 

1.レターポットとは

 レターポットとは西野亮廣さんが考案した新サービス。運営から一文字(レターという単位)5円で文字を購入することができ、それを使って他のユーザーにメッセージを送ることができる。メッセージをもらった人はもらった文字数(レター)がどんどん自分のアカウントに加算されていき、それをまた違う人に送ることができる仕組み。信用がある人は比例してレターが溜まると仮定されるので、今の時代の大事な「信用」を可視化することができる。

 

2.疑問その1 「プレゼントの本質は時間とは限らない」

 西野さんは言う。「プレゼントの本質はそこに費やされた時間」だと。「お金を贈られたら便利だが、そこに時間が費やされていないからちょっと寂しい」とも言う。お金や商品券だと情感がなくなるという理屈はたしかにわかる。しかし、「プレゼントの本質がそこに費やされた時間」というのは本当だろうか。インディアンの贈与の風習でポトラッチというものがある。これは、自分の財産を相手の目の前でぶっ壊すことで「こんな犠牲をいとわないほど、あなたのことを思っています」という気持ちを伝える行動原理だ。ポトラッチは慣習なので、その文化圏の中では常識であり、「ああ、いつもありがとね」となるのだろう。しかし、ポトラッチの共通認識を持たない私たちは果たして、目の前で高価な財産をぶっ壊されて心から嬉しく感じられるだろうか。少なくとも私ならドン引きする。「費やされた時間にこそ価値がある」というのは非常にポトラッチ的な考えである。誰かがツイッターで言っていたが「このプレゼントあなたのために大阪から東京まで徒歩で持ってきましたと言われて、嬉しいだろうか」。やはり私ならドン引き。というわけで、まず「かけられた時間こそがプレゼントの本質」という西野さんの考えに対して疑問その1。

 

3.疑問その2「レターの価値は無理やり作られたものである」

 そして西野さんは「送るお金に面倒を足す」ことで費やされた時間を可視化するために、一文字5円〜50円という価値のついたレターを提案する。使い道として「誰かの退社のお祝いとかで文字を贈ってあげる」とか「友達の演劇の感想を”価値のある文字”で、贈ってあげる」としている。ここでいう「価値のある文字」の価値とは何だろうか。いわく「レターポットの1レター(文字)には5円の価値があるということを、みんな知っている」ということらしい。つまり「この文字には5円の値段がついているから価値がある」と、値段をつけた本人が言っているのである。これは「この水は1万円の価値があります。なぜなら、私が1万円で売っているからです」という霊感商法と全く同じ構図である。ようするにこのレターは、もともと価値がある(みんなが欲しがる)から5円の値段がついたのではなく、西野さんが無理やり値札をはっつけることで、さももともと価値があるものかのように錯覚させているものである。

そして「言葉」というものは人類全体の共有財産です。ビルゲイツだろうがホームレスのオッサンだろうが無料で使うことができる。そこに言葉の力があります。それを一個人が通行料のように課金してしまっていいのでしょうか。私には「親孝行」の価値を可視化するために有料にしよう、とか「お母さんの仕事」を数値化するために課金しよう、みたいな乱暴な行為、それこそ非常に資本主義的な行為に見えます。言葉は生き物ですから自由にさせておくのが一番です。一個人が安易に課金などすると、結果としてコミュニティ内の言語文化を痩せ細らせてしまうことになってしまうと思います。ここがかなり大きな疑問2。

 

4.「価値がないならなぜレターをもらったら嬉しく感じるか」

「でも同じお礼でもレターでもらったら本当に嬉しく感じる」という声をたくさん聞いた。それはきっと嘘ではないと思う。

ためしにSNSのイイネ機能が有料になったと考えてみてほしい。ようは運営から1イイネ5円で買うか、誰かからイイネももらうかしなければ他の人にイイネすることができない世界である。その世界では、それまで洪水のように溢れて暴落していたイイネの価値が無理やり吊り上げられている。そうなると人は本当にイイネと思ったものにしかイイネをしないし、もし自分がイイネをもらうと、無料のイイネをもらった時よりも絶対に嬉しいと感じるはずだ。つまり「レターでもらうと、無料の文字でもらうより嬉しい」とはそういう感覚である。

しかし、それは単に「飢餓状態で食べると、普通のパンでも信じられないくらいおいしく感じる」というだけであって、飢餓状態じゃない人からすると「いつもと同じパン」である。それを「このパンはこんなにおいしく感じるんだから(それは嘘ではないです)、普通のパンではなく特別な価値のあるパンです」と言い張って売るのは消費者を欺く行為だ。しかも、パンをおいしく感じさせるために、わざと飢餓状態を作りだしているのは他ならぬパン屋さんなのである。あなたがどんなにそのパン屋さんのファンで応援したいと思っても、そうでない人からすれば「パンはパン」です。これは老婆心ですが「一回食べればわかるから!」と言ってオススメしても怪しまれるだけだと思います。

 

5.「換金機能=コミュニティ外部からの信用」

 レターポットは最初換金機能がつくはずでしたが、直前になって中止されました。最初は内部でも「換金できなければただの有料SNSだ」という批判的な声が上がっていたようですが、最近ではすっかり「むしろ換金できたら意味がない」というのがトレンドのようです。

 その理由として、給料が完全に管理されている人にはレターを送ることができないとされていますが、これは真っ赤な嘘です。副業禁止のことを言っているのでしょうが、レターポットを「ご祝儀」だと考えれば世間相場であれば税制申告の必要はありません。たとえ高額になったとしてもしっかり確定申告すれば大丈夫。

 そしてもう一つ、換金不要の根拠として「レター(文字)には5円の価値があるということを、みんなが知っている経済圏では換金が不要」というロジックが謳われています。それは(戦時中、小学校で配られる肝油が子どもたちの経済圏で通貨の代わりになっていたのと同じようなことで)論理的には間違ってはいないのですが、それではどこまでいってもコミュニティ内でしか信用されません。もしそのモノ自体に利用価値(固くて壊れにくい素材とか、ピカピカ光ってるとか、食べたらおいしいとか)がない場合、コミュニティを一歩出れば一切の価値がなくなります。コミュニティ外部の「価値ある何か」と交換が出来ることが、唯一客観的な価値を担保する方法なのです。それがつまり換金機能です。もしレターが安定したレートで日本円に換金することができれば、その信認は日本全国に及びます。名実ともに「これは1文字5円の価値のある文字だからね」ということになり、便利さからおそらく爆発的に普及するでしょう。しかし換金機能がなければ、コミュニティ外の人に客観的に価値を信用させることは不可能です。だってもともとコミュニティ外の人には価値のないものですから(普通のパンをおいしいと感じるのは飢餓状態の人だけです)。そうなるとレターは家の中でしか使えない「肩たたき券」と同じです。

 

6.疑問その3「なぜ運営は恩送りよりも日本円をほしがるのか」

 レターポットで作りたい世界は「恩送り」だそうです。恩送りとは「お返しとか見返りは求めずに、とにかく人に与えましょう」という考え方らしいです。「交換」を基本とする資本主義の時代から、恩送りの贈与時代にいきましょうよ、と西野さんは提案します。

 すばらしい考え方ですね。しかしここでまた疑問があります。運営は西野さんが提案する「恩送り」の世界を実現するために一生懸命働いています。しかし、その働いた分の見返りとして日本円の受取を決して拒否しません。「いや、もし俺が見返りもらっちゃったらレターポットで作りたい世界と矛盾しちゃうんで!」と言う人は誰もいないようです。西野さんでさえ言いません。つまり運営や西野さんはユーザーに提案する未来をこれっぽっちも信じていないのです。信じているかも知れませんが、少なくとも言動だけ見たら信じていません。「いやいや、だって現実問題サーバーの料金とかもかかるし、ご飯も食べなきゃ生きていけないじゃん」と言われますが、その通りなんです。運営は決して「すみませんけどサーバー無料で貸してくれませんか、お礼はレターで贈りますから」とか「すみませんが、ご飯食べさせてくれませんか。レターでお礼しますから」とは言いません。ようは自分が値札をつけた1文字5円のレターが、現実社会では無価値なことを知っているから言わないのです。そんなことを言ったら信用をなくしますからね(笑)。でもそれを言わないのなら、「見返りは求めるな」とか、「資本主義から贈与時代」とか大風呂敷を広げない方がいい。まして少しでも善いことをしよう、人を喜ばせよう、というユーザーの善意の部分を搾取するような商売は止めた方がいいと私は思います。これが疑問その3です。

 

7.疑問その4「レターの多さは信用を可視化させるのか」

 レターポットは「信用」を集めるのに最適で、そして集めた「信用」を可視化するという社会実験のようです。これは私個人の考えですが、信用というものは1文字5円のレターがたくさん集まったら可視化されるという、そんな即物的なものではないと思います。目に見えない、小さな小さな関係性の積み重ねで、長い年月をかけなければ築けないものです。反対に壊れる時は、たった一度の過ち、たった一言の言葉によって一瞬で壊れてしまうようなとてももろいものです。だからこそかけがえのないものなのです。

 レターポットによってたくさんのレターを得た人が結果としてクラウドファンディングなどで支援を得られるということが起こっています。それ自体はすばらしいことです。しかし、それは信用とは少し違うことだと思います。もしレターポットを贈ってばかりで、あまり自分にはレターが贈られてこないという人がいたとします。その人は人として信用がないのでしょうか。そんなことはないと思います。目立つのが苦手な慎ましい人なのかも知れません。ただ声が小さいだけかも知れません。でも実際にはレターポットが普及すれば一部の影響力を持った人、声が大きくて目立つ人のところにレター(=信用と西野さんが仮定しているもの)が集まり、その人はますますレター持ちになる一方、その他のほとんどの人にはあまりレターが回ってこなくなるでしょう。そして重要なのは、影響力の少ない人が善意で購入したレターを養分にしなければ、影響力のある人にレターが集まらない仕組みだということです。そしてその頂点に君臨するのが西野さんというわけです。レターポットの近未来は信用(と認識されている何か)のネズミ講のような形相を呈してくると私は予想します。だって、レターポットで得た利益で、災害支援などをしたとしても、それで信用を獲得するのは西野さん一人であって、かいがいしくレターを購入した無名の人には決して光が当たることはないからです。これが私の考える「レターポットによって信用が可視化された世界」の行く末です。私にはこのような世界がすばらしいとはどうしても思えません。これが最後の疑問です。

 

8.「レターポットは西野さんを応援するには最適なツール」

 と、ここまでつらつらと批判めいたことを書き綴ってきましたが、私はレターポットがなくなればいいと思っているわけではありません。レターポットは使えば使うほど、西野さんの影響力は大きくなりますし、理論的には西野さんがボロ儲けすることも可能です(儲けたお金で災害支援をしようが風俗に行こうがそれは関係なく)。なので、西野さんという個人の活動に賛同し、金銭的に応援するためにはかなり有益なツールだと思います。それは西野さんファンからすれば喜ばしいことなので、ファンクラブのコミュニケーションツールとしては最強なのではないでしょうか。ただ、これまで述べてきたような理由で、西野さんを応援したいと思っていない人に、客観的にレターポットの価値を理解させることは相当難しいことだと思うので、通貨のように一般に普及する可能性はほぼないと私は思います。